2019年04月17日 記事
募金は小瓶の小銭、寄付は茶封筒に紙幣、のイメージ

2019年04月17日(水)

●ノートルダム寺院焼失。見慣れた、といっても見たことなし、慣れてもないが、とりあえず、世界の風景が失われるというのは何とも言えぬ感じがある。アメリカで起きた同時多発テロでWTCビルが崩壊した時も、同じ感覚で、人間、そこにあるものはずっとあって当たり前で、それが日常だと思っているから、それが無くなったことへの非日常感につながるんだろうか。日本で考えれば、例えば、スカイツリーが折れるとか、そんな感じか。なるほどショッキングだ。とは言え、フランスなど、暴徒があちこちに火をつけて大騒ぎする国じゃないか。今ある街を焼くのと、歴史的建造物が焼かれるのと、何が違うのか。●失われた日常のためか、再建に向けての寄付が寄せられているという。中でも、ファッション界の富豪ら3人が、合わせて約380億円の寄贈を発表しているという。あるところにはあるもんだ。ノブレスオブリージュだったか、「貴族は、その身分にふさわしい振る舞いをすべし」みたいな感覚があるから、こういう時にもポンと出すんだろう。あちらの世界らしい、というが、日本では「武士は食わねど高楊枝」みたいなものか。あ、こっちは単なる見栄っ張りか(笑)。●そう言えば、熊本城も復興のための寄付を集めていたが、何だか日本で寄付というと、どうも紙幣よりも貨幣、小銭を集めなきゃならんような気がするのは自分だけだろうか?余ったお金を回すのが募金、みたいなところがあって、コンビニの店頭に置かれているようなアクリルの募金箱に紙幣が入っていると、むしろ違和感がある人も多かろう。募金の目的が「救済」であれば、金額が多いに越したことはないが、そもそも、募金の目的は「善意」と「容認」なので、一概に金額だけでは図れない。例えば、困窮している人がありました、さて、その人のために募金をしましょう、となった場合、そいつの存在を容認するからこそお金を出すんだが、そいつが許されざる存在であれば、誰もカネは出さない。仮に100万円必要なところに、支援者1人が100万円出せば、募金としての目的は達成されるが、社会が支持しているかどうかは別の話、むしろ、1万人から100円ずつ集められる募金の方が、皆の応援により成り立っているものとして受け止められる。さらに、募金者の心に、見えない連帯感というか、皆で助けた満足感というか、半ば自己満足みたいなのも混じっているので、一人が目標額の大半を出してしまうと、何だかしらけてしまうんじゃなかろうか。こういう場合、「あまり多いと、かえって失礼」みたいな言い方で牽制してきたが、募金だの寄付だの、その人というより、自分のためにやっている人が多いんじゃなかろうか。★☆★
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