
悪いものを悪いと言える社会
2019年05月29日(水)
●『川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』、藤田孝典という『NPOほっとプラス代表理事、聖学院大学人間福祉学部客員准教授』という肩書の人らしい。あちこちで議論になっているが、書かれた内容よりも、まず、前提に突っ込むべきだろう。そもそも、犯人の名前が出始めただけの素性も分からない頃に、こんな文章を発表している、って事は、この人こそ、最も自分らが接している『弱者』を疑っている事に他ならないじゃないか。犯人の名前に心当たりがあるなら別だが、「弱者さんに死にたいなら、なんて言っちゃダメですよ」って、その弱者呼ばわりされている側から文句が出ても良い発言だ。所詮、弱者を食い物にして生きている連中、献身ではなく、どこかしら見下しているに違いない事を浮き彫りにするような発言だ。●「死にたいなら一人で死ぬべき」、この発言は酷いようで、その実、問題ないだろう。それは、子供らを犠牲にして自殺したバカに向けた怒りの言葉であって、何だか知らない弱者とやらに向けた言葉じゃない。まぁ、この手の弱者は、言葉尻を捉えて「差別だ」と騒ぎ立てる事に慣れているので、その捉え方も違うが、簡単に言えば「テメーに向けた言葉じゃねーよ、自意識過剰か」で済むような話。無論、そう言えば「テメーとは何だ!」と話を逸らすので「あなたに向けた言葉ではありませんよ」と言い換えておこう。どちらにしても「冷静に」などと諭す連中が増えたが、社会はもっと怒りを表現して良いと思っている。いや、そういう冷静にとキレイゴトを並べる連中と、アベ死ね、などと煽り立てる連中のイメージが重なるので、むしろ、信用出来ないのだが、何ら罪もない子供らを巻き込んだ自分勝手なクズに対して、怒りの声1つ挙げられないような世の中が、一体、何を救えるのか。●識者と呼ばれる連中が増え、競争しなきゃ食えなくなったためか、過度に弱者にすり寄って飯を食っているように映るが、結果的に、過度に『弱者』に配慮する社会になった。知的障害など責任を負えない人間を放置しているヤツの無責任さを問えば、弱者いじめだ、差別だと騒ぎ立てるが、被害者や遺族は、本当にそれで納得しているのか?通院歴なども、そういう患者に対する『差別だ』というが、何ら責任を負えない者と、何ら責任を負うつもりのない連中に対して、近づかないという最低限の自衛すら許さないのか。この手の事件が起きるたびに、胸クソの悪さばかりが残る。★☆★